小説復興・文藝復興を真剣に目指していますが、花見より好きかもしれません束の間の新緑見。
心の平安を願わない人がいたら、挙手をお願いします。
手を挙げる人は、平安と対極の状況に陥ったことが幸いにしてない方だと思います。
何があっても揺さぶられない心などは難しいとは思っていても、「一喜一憂からの解放」などにも大方惹かれのではないでしょうか。
「一喜一憂からの解放」のためには、「善悪の判断を超えた観察眼、ジャッジしない」などと言われます。
小説作法と似ています。自分自身に対する客観的な視点の確保です。
でも正直なところは、みなさん「一喜」はまったく構わない、解放されたいのは「一憂」からであって、「一喜」は大歓迎なのではないでしょうか。
実は、ここに大きな陥穽があります。嬉しいことがあると、手放しで感情的にその喜びに浸ってしまうのではないでしょうか。その一瞬で、培われつつあったのか、客観的な観察眼が霧消します。はい、また一からやり直しって言う感じです。
「一喜一憂からの解放」を本気で望むなら、「一喜」のときこそ要注意です。感情に身を任せてしまってはなりません。それじゃあ折角の喜びを堪能できないではないか、人生の愉しみ、おもしろみがないじゃないかと思われるかもしれませんが、「一憂」からの解放と共に、心の「高値安定」が成し得られます。
本当に心の平安を望むなら、感情的になってしまってもOKなのは、愛の感情に対してだけです。別の言葉にすると、利他心です。嬉しいからと感情に浸ってしまうのは、利己心なのですね。
なんか偉そうですが、最近分かったことなので、惜しげもなく括弧笑、シェアします括弧笑。
藤岡陽子さんの書下ろし長編小説「僕たちは我慢している」(5月13日発売)の主要登場人物、中森揮一。小学三年のときにぴょんぴょん飛び上がって喜びを表した彼は、12年後、どのように喜びを表現する青年になっているでしょうか。
何度読んでも熱い涙を禁じ得ない場面です。
隆祥館書店さんのイベントです。
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「エンタメ」呼称故に忘れられている、小説の大きな役割について書きました。
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