小説復興・文藝復興を真剣に目指しています。
「13日米ペンシルベニア州バトラーで前米大統領が選挙集会で演説中に銃撃される」
「時間に几帳面な高齢の家族が日課の早朝ウォーキングから定時を十分過ぎても戻らない」
どちらが衝撃的でしょうか。
少なくとも私の家族にとっては、後者のほうであったようです。
私が定時の十六分遅れで門扉を入ったら、玄関ドアから飛び出してくるところでした。お尻のポケットに入れてあったケータイには、着信履歴が三件ありました。
小説読者を引き付ける二大原理の一つは、「身につまされる」です。上述例で明らかですが、万人共通の、一番切実なのは我が事です。故にその万人に読ませるには、我が事と思わせられるかです。
もう一つの「原理」は、「我を忘れる」です。では、身につまされて我を忘れることはあるのか。
我を忘れるほどに身につまされる。その「身」は「我」なのか。「我」を超越しているのではないでしょうか。小説世界では、読者は登場人物たちと利害関係皆無です。我を忘れてのニュートラルな愛の視点……それこそが普段は得られることなどない「神の視点」です。小説を読む醍醐味です。
コメントを残す