小説復興・文藝復興を真剣に目指していますが、人が選んだほうにすれば好かったと思うことがあります。
身体を動かすことは好きですが、と言うよりもルーティンにしていますが、スポーツ観戦の習慣はありません。観ればおもしろいのは分かってはいても。
むかし大相撲をテレビで観ていて贔屓の力士が勝って思わず感情を露わにしたら、ある人に好ましからざる表情をこちらも露わにされたことがあります。
力士に限らず誰もが例外なく、この地上という土俵でも舞台でも構いませんが、ステージに立っているのだと思います。敢えて言いますが、自らが希望して。でも手を挙げたことは忘れてしまうようです。
大リーグで大活躍している選手のことを、「晴れ舞台に立ち続けている」と言うのは違和感がないと思います。彼に熱狂する人たちは、彼は自分とは違う世界の住人だとか、別種の人間のように思っているかもしれません。
熱狂されている野球選手は調子に乗ることなどなく、自身が立てた目標に向かってひたすら精進しているように見えます。
何れ向こうに持って還れるものは周囲の評価などではなく、精進したそのプロセスだけなのだと思います。
ある人には、かっこ悪いと思われたのでしょう。
小説を読むと、一人ひとりがそれぞれの舞台を演じていることがよく分かります。
藤岡陽子さんの『僕たちは我慢している』(小社刊)に登場する4人の高校生、みんなかっこいいです。
藤岡さん、勉強する意味ってなんですか。
https://www.asahi.com/thinkcampus/article-121237
藤岡さんが『僕たちは我慢している』を語ります。
讀賣新聞文化面に取り上げていただきました。
佐藤亮子さんに推薦していただきました。

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